John Wayne Gacy ~ジョン・ウェイン・ゲイシー

ジョン・ウェイン・ゲイシー

You know, clowns can get away with murder.”

「知ってるだろ? ピエロになれば殺人なんて簡単さ」

  危 険 度  ★★★★☆  
知 名 度★★★★★  
二 面 性★★★★★  

ジョン・ウェイン・ゲイシー・ジュニア(John Wayne Gacy Jr.)

自身の社会的地位を守るために33人もの少年を殺害した、恐怖の殺人ピエロ。精力的に慈善活動を行うエリートとしての一面も。

誕生:1942年3月17日・アメリカ
犯行:1972年-1978年・アメリカ
死没:1994年5月10日・アメリカ
死因:薬殺刑による刑死

犠牲者数:33人
異名:Killer Clown(キラー・クラウン、殺人ピエロ)

生涯

父親による支配

ゲイシーは1942年3月17日、アメリカのイリノイ州で生まれます。退役軍人であるゲイシーの父親は、幼い頃から貧しい生活を送ってきた影響で、「人に弱みを見せてはならない」という独自の人生哲学をもっていました。そんな父親は、初めての自分の息子に強い期待を込めて、西部劇で有名な俳優「ジョン・ウェイン」の名をつけるのでした。しかしゲイシーには心臓疾患がありました。そこであろうことか、この父親はゲイシーに失望し、見限ってしまうのです。

そしてゲイシーの父親には脳腫瘍があり、ときおり癇癪などの発作を起こしていました。さらにはアルコールにも依存していた父親の情緒は極めて不安定で、父親は、湧き上がるやり場のない怒りを家族にぶつけていたのです。そして既に見限られていたゲイシーは、そんな父親からの暴力を一身に受けることになりました。少しの失敗で殴られ、身体の弱さをなじられ、「クズ、間抜け、オカマ」と罵られる。そのような強いストレスにさらされる毎日で、幼いゲイシーはパニック障害や心臓発作を頻繁に起こしました。しかし発作のことを父親に知られたら、さらに激しく罵倒されるでしょう。そこでゲイシーは、このような身体の不調を隠し、何度も限界に達して失神してしまいました。もちろん父親が倒れた息子を心配することはありません。ゲイシーの母親は、なんとか虐待を止めようと父親に懇願します。しかし父親は、「あいつは親の気を惹くために倒れてるんだ」と、ゲイシーを嘲笑するのでした。

父親からの肉体的・精神的な虐待を受け続けて育ったゲイシー。そんなゲイシーは、14歳から18歳までの間に1年以上の入院と4度の転校を経験し、高校を退学することになりました。しかしその後、ゲイシーは職業訓練校に編入し、そこで徐々にビジネスの才能を発揮していくのです。編入後のゲイシーは優秀な成績を上げ、事務室で働くことになりました。そしてゲイシーは、「父親に認められたい!」という強い願いから、父親が支持する民主党の議員候補者の応援を始めるのです。

不思議に思いませんか? どうしてジョンは、自分を虐げ続けた父親に認められたかったのでしょう。これは、監禁などの被害者が加害者と自分を同一視する「ストックホルム症候群」といった心理状態かもしません。被害者が自分の心を守るための心の反応ですね。

ようやく父親に認められたかに思えたゲイシー。しかし、病歴を原因に兵役審査を落ちてしまったことや、女友達と性行為をしようとしたときに意識を失ってしまったことをきっかけに、父親はまたもやゲイシーを罵るようになりました。「ほらみろ、お前の中のホモが顔を出したんだ」と。父親はこのように、ゲイシーを同性愛者として差別するような罵倒を何度も繰り返していたのです。

「眠らない男」の誕生

ゲイシーは20歳の頃に、車に関して父親との間で口論になり、その数時間後に家出をしました。怒りのままに車を走らせること3000km、ゲイシーはラスベガスに到着しました。そこでゲイシーは、母親が迎えに来るまでの3ヶ月間、葬儀屋でアルバイトをしていました。昼間は遺体の防腐処理を手伝い、夜は安置室の隣にある簡易ベッドで眠る。そんな日々の繰り返しでした。

その後母親に連れられて故郷に帰ったゲイシーは、ビジネスの専門学校へと入学します。そして靴を取り扱う大手販売店にセールスマンとして就職。ここから一気に才能が開花し、入社してすぐにその営業手腕を認められ、エリアマネージャーに抜擢されました。さらにゲイシーは、社会のリーダーとなる若者が集うアメリカ合衆国青年会議所の有力会員でもあり、その会議所でも素晴らしい営業成績を残し、すぐに役職に就いています。

そして22歳になるとゲイシーは同僚の女性と結婚し、彼女の父親がオーナーをしていたケンタッキーフライドチキンの店舗マネージャーになりました。その店舗数は3店舗。父親に虐げられてばかりの病気がちの少年は、複数の店を管理する優秀なビジネスマンへと成長したのです。さらにゲイシーは人望も厚く、会議所の次期会長候補としてももてはやされていました。そして地元のボランティア活動にも精力的。仕事・社会活動・慈善活動。すべてに全力を尽くすゲイシーは、いつしか「眠らない男」と呼ばれるようになりました。

しかし、そんなゲイシーの輝かしい功績の裏には常に父親の影があります。というのも、ゲイシーがこれほどまでに精力的に働いたのは、ひとえに「父に認められるため」なのです。家族も金も、社会的地位をも手に入れてなお、ゲイシーの動力源は父親だったのです。

そしてついにそんな愛情が結果を結びます。ゲイシーの父親は、功績を残し続けたゲイシーを受け入れ、「お前のことを勘違いしていたよ」と言って、ゲイシーと握手を交わしたのです。まさにこの数年間は、ゲイシーにとって最高の時代でした。

逮捕、そして続く絶望

結婚後、すべてが順調かに思えたゲイシーの人生ですが、26歳になると突然逮捕されてしまいます。罪状は未成年への性的虐待。実はゲイシーには、結婚前から逮捕の予兆があったのです。

結婚する少し前、ゲイシーは、一緒に酒を飲んでいた男性とのオーラルセックスを経験しています。その行為は無意識のもの。その後、ゲイシーの脳裏に浮かんだのは、幼少期に何度も浴びた父親の言葉でした。「お前はホモだ。オカマ野郎」。ゲイシーは、父親の言葉がついに現実になってしまったという事実に絶望しました。

そんな出来事の後、会議所で精力的に活動をしていたゲイシー。しかし、若き実業家という顔の裏で、逮捕の原因となるある事件を起こしていたのです。その事件の当事者は会議所会員の息子、15歳の少年です。ゲイシーは少年を「ポルノ映画を観よう」と言って誘い、性的関係をもちました。情事の後にゲイシーは少年に金を払いましたが、ゲイシーのこの行動に味をしめた少年は何度もゲイシーに金をせびり、ゲイシーと少年はそのたびに性交していました。しかし突如この少年が訴えを提起。ゲイシーは逮捕され、懲役10年の実刑判決を受けました。さらには妻とも離婚。こうして順風満帆だったはずのゲイシーの日常は崩壊したのです。

……かと思ったのも束の間。なんとゲイシーは、たったの16か月で出所します。理由は刑務所内での模範的な活動。ゲイシーは収監後、わずか7か月で高卒資格を取得し、大学の通信教育で心理学などの単位も取り始めました。さらに刑務所内の会議所の法律相談員として、囚人の待遇改善に関する2つの法案を州議会で可決させました。このような実績が評価され、ゲイシーはすぐに出所することができたのです。

その後ゲイシーは、再び生まれ故郷であるイリノイ州に戻りました。しかし、そこで彼を待ち受けていたのはさらなる絶望だったのです。

ゲイシーが服役中の1969年、ゲイシーの父親が、肝硬変でこの世を去っていました。知らない間に生きる目標を失っていたゲイシー。父親の死を知ったゲイシーは、床に伏せてすすり泣きました。その後、彼の異常性はますますエスカレートしていくのです。

初めての殺人

釈放から半年後、ゲイシーは少年への暴行容疑で再び逮捕されますが、この事件は不起訴となり、ゲイシーは晴れて自由の身となりました。自由の身、とはいえ、父親を失ったゲイシーに生きる気力はありません。ふらふらと遊ぶようになったゲイシーは、パーティーに顔を出すようになります。そしてそこで知り合った少年と夜を共にするようになったのです。

そしてある夜、この日もゲイシーは1人の青年を誘い、家に連れ帰ります。その翌日、ゲイシーが目を覚ますと青年はナイフを片手に立っていました。青年はゲイシーの朝食を調理していただけ。しかしゲイシーはそのナイフを見てパニックに陥ります。そしてゲイシーは混乱のままに青年に飛び掛かり、その身体にナイフを刺してしまったのです。知られている限りでは、これがゲイシーによる最初の殺人。自分の過ちに動揺したゲイシーは青年の遺体を床下に隠しました。そして自らの行いを振り返り、彼を殺害したときに強いオーガズムを経験していたことを自覚するのです。

「勤勉」なピエロ

そこから彼は、強姦と殺人に生きる喜びを見出してしまいます。しばらく貯金して29歳で故郷の近くに自宅を購入したゲイシーは、そこを拠点にして建築会社「PDM Contractors」を設立しました。持ち前のスキルと勤勉さで会社はすぐに軌道に乗り、ゲイシーは一日16時間働くこともありました。そして高校時代から知り合いだった女性と結婚し、愛する妻とその連れ子2人と、幸せな生活を送っていました。

地元の民主党のメンバーとなって大統領の妻との会合もしているゲイシーは、地元で尊敬の眼差しを集めます。そしてゲイシーは、休日になるととあるコスプレをして、福祉施設を訪れるようになるのです。そのコスプレとは、「ピエロのポゴ」(もしくは「ピエロのパッチ」)。ゲイシーはピエロの仮装をして、子どもたちの前に現れるのでした。

後のゲイシーはこう語ります。「失神するとき、記憶を失います。でも、ピエロの姿になると安心できるんです」。

そしてゲイシーは、過去に会議所会員の息子やパーティー会場の男性にしていたのと同じ手口で、従業員として揃えた多くの少年たちを地下室に誘い込みました。ゲイシーは地下室にやってきた少年に「手品を見せよう」と言って手錠をかけ、凶器で脅しながら強姦し、その首をゆっくりと絞めて殺すのです。ゲイシーは、この方法で何人もの少年を強姦の末に殺害しました。殺害後は遺体を床下に埋葬し、その上に石灰や塩酸を撒きました。

そんな「娯楽」に耽っていたゲイシーは33歳で2度目の離婚を経験します。そこからさらに、ゲイシーの娯楽はエスカレートするのです。

腐臭の家

1978年、ゲイシーは、自分の会社にアルバイトとして面接にやってきた15歳の少年、ロバート・ピーストを、いつものように床下に埋めました。しかしロバートの行方を捜索していた警察が、ゲイシーの家を訪ねてきたのです。

そこで警察を待ち受けていたのは、遺留品の山とアダルトグッズ、そして、家全体に漂う異様な悪臭でした。警察は以前からゲイシーを怪しんでいたのですが、その疑念が、ついに確信に変わります。

ゲイシーをなんとか逮捕しようと監視を続ける警察。そんな監視を、社会的地位を武器にして潜り抜けるゲイシーですが、ついにマリファナを所持していたという疑惑で家宅捜査を受けることになりました。もちろんゲイシーの家の床下には、「少年たちだったもの」が大量に埋まっています。

こうしてゲイシーの家からは29人の遺体が見つかり、さらに4人を川に捨てたという自供を得ることにも成功。被害者は9歳から20歳の男性で、その多くは男娼でした。さらには自分の会社のアルバイト数人も、床下に埋められていたのです。遺体はどれも、床下できちんと並べられ、「整理整頓」されていました。

床下に埋められた遺体は酷く腐敗しており、現場の警官たちは激しい眩暈と吐き気に襲われました。あまりの腐臭により、一度この臭気に触れた衣類は危険物とみなされてすべて焼却処分されたほどです。掘り返したことでさらに腐敗が進む大量の遺体。現場では命に関わるような危険物質が検出され、作業員たちは当分髭を剃ることすら禁止されました。ほんの少しの傷口でも、この臭気に触れれば死因となりかねないのです。

揺らぐ判断

逮捕された後、ゲイシーは精神鑑定を受けました。そこでゲイシーは解離性同一症、つまりは多重人格であることを主張し、自身の犯行を別の人格の仕業に仕立て上げたのです。

1人目のジャックは酒と麻薬に溺れて少年と性交をする。2人目のジャックはその行為を眺めて楽しむベテラン刑事。そして3人目のジャック、心優しい警官が少年をもとの家に帰してあげようとすると、4人目のジャックが現れて少年を殺してしまう。

ゲイシーはこの設定を貫き通し、1980年2月に始まった公判でも自身の多重人格を主張しました。しかし33人もの罪なき命を奪ったゲイシーは当然有罪。しかし、これまで勤勉に働いていたゲイシーには数百万ドルもの資産があります。ゲイシーはその資産を利用して20回以上の上訴を提起し、さらには模範囚を演じながら今度は冤罪を主張し始めます。そのうえ死刑制度の違憲性まで訴え始め、ゲイシーは国中から非難を集め、死刑も願われるようになるのです。

その後もゲイシーの精神状態に関する検査や議論は多方面で行われました。そのなかで判明した事柄は次のようなものです。

  • 知能指数がかなり高い
  • 脳障害の兆候はない
  • 極めて異常な精神状態をしており、精神分裂や妄想症の可能性がある
  • 意図的に自分を有利にしようとはしていない
  • 父親によるトラウマが深く根付いている

ゲイシーの多重人格が真実か否か。高い知能をもつゲイシーと死刑を望む国民との、戦いのような状況でした。

「34人目」

再三にわたる再審請求で裁判が長引くなか、とある事件が起こります。

犯罪者の心理を調べる目的で、多くの凶悪事件の犯人との接触を図っていた当時18歳の少年、ジェイソン・モス。彼はゲイシーにも興味をもち、手紙を送ったのです。そうして始まった2人の文通。その後ゲイシーは彼の電話番号を突き止め、彼に「人を殺した本当の理由を教えてあげる」と言って、刑務所におびき寄せました。

ゲイシーは久々に巡り合えたチャンスを無駄にするはずがありません。ゲイシーは模範囚としての立場を利用して、看守も仕切りもない面会室を用意し、この少年とふたりっきりで面会をしたのです。ゲイシーは監視カメラの死角で彼を襲いました。しかし間一髪看守が犯行を止め、なんとか未遂に終わったのです。

この「34人目」への犯行が決定打となり、ついにゲイシーの死刑が確定しました。ゲイシーはその後、多くの時間を絵画の制作に費やし、1994年5月10日、薬物注射による死刑を目前に控えたゲイシーは、最後の晩餐にこんなものを注文します。

12尾のフライドシュリンプ、フライドポテト、450gのイチゴ、そして若き日の栄光を象徴するケンタッキーフライドチキン。

そしてついにゲイシーの死刑が執行されます。「会場」の周辺には1000人以上の群衆が集まりました。しかし、ここでトラブルが起こります。通常7分前後でほとんど苦しむことなく終えるとされる薬殺刑ですが、ゲイシーは20分近く苦しみ抜いてようやく息絶えたのです。この不手際について、担当の検事は「被害者が受けた苦痛に比べれば大したことはないね」と述べています。

34人目のその後

34人目になりかけたジェイソン・モスはこの事件以降凶悪犯罪者との接触を止め、これまで交流した殺人鬼(チャールズ・マンソンやジェフリー・ダーマー、そしてゲイシーなど)の分析を著書『「連続殺人犯」の心理分析』にまとめています。

彼は10歳で大統領顕彰の成績優秀学生賞を受賞した、アメリカでも有数の成績優秀者です。その後は大学を首席で卒業してからロースクールを卒業。犯罪被害者を守る弁護士となりましたが、31歳でうつ病のために自ら命を絶っています。

年表

1942/03/170アメリカ・イリノイ州シカゴに誕生
196018政治に関わり始める
1962/0420ラスベガスへ家出
196321ビジネスの専門学校を卒業
1964/03221度目の結婚
1967/082515歳の少年に性的暴行
1968/0526逮捕・起訴
1969/09 271度目の離婚
1969/1227父親が死亡
1970/06/18 28仮釈放
197129建築会社を設立
1972/01/0329最初の殺人
1972/07302度目の結婚
1976/03332度目の離婚
197835自宅が不審がられる
1980/0237初公判
199351ジェイソン・モスの襲撃
1994/05/1052薬殺刑による処刑

参考サイト

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